有機物量子スピン液体の熱伝導論争の流れを振り返る

初版:2022/1/23

第2版:2022/5/23

第3版:2022/6/30

 [イントロ]

 量子スピン液体は、P. W. Andersonによって提唱された磁性体の新奇な磁気状態です。この状態は、スピンフラストレーションによる大きな量子ゆらぎにより、極低温でもスピンが秩序化しない状態です[1, 2]。
 この量子スピン液体研究のブレークスルーの1つが、三角格子有機磁性体β′-EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2における比熱、磁化率、そして熱伝導度の金属的振る舞いです。その結果は、量子スピン液体状態におけるスピノンFermi面の存在を示唆しており、注目を集めています。しかし、これらの測定結果のうち、熱伝導度の測定結果について2019年以来、日本のグループと中国、カナダのグループで矛盾した結果が報告されており、議論が続いています。
 そこで本記事では、この議論の経緯をまとめてみることにします。

[論争の流れ]

 有機物量子スピン液体の熱伝導論争は、おおよそ以下のような経緯をたどっています。国内外の学会で議論された内容もあるようですが、公に出版されている論文を元にまとめています。また、実際にはArxivに論文が出た時点でこれらの議論が始まっていましたが、下記では出版されている論文を引用しています。Arxivのバージョン間の内容の違いをみれば、リアルタイムで議論が行われている様子がわかりますのでご参考ください。
(※2022/2/19 追記:一部議論の時系列に誤りがあるとのご指摘をコメントで頂きました。正確な時系列は、コメント欄の加藤先生のご解説、及び下記論文のArxiv版バージョン間の議論の変化をご確認ください。)
  1. 有機物量子スピン液体候補物質の1つ、β′-EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2が絶縁体にも関わらず、極低温で金属並の熱伝導度を示すことが京大グループによりScience誌に報告される。
    ・M. Yamashita et al., Science 328, 1246 (2010)

    図、β′-EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2の熱伝導度の温度依存性

  2. 9年後、中国とカナダのグループが独立に追試を行ったところ、極低温の熱伝導度がゼロになり、Science論文の結果を再現できなかったことをPRLとPRXにそれぞれ報告する。
    ・J. M. Ni et al., Phys. Rev. Lett. 123, 247204 (2019)
    ・P. Bourgeois-Hope et al., Phys. Rev. X 9, 041051 (2019)

    図、Science論文の結果と中国、カナダグループの結果の比較

  3. Science論文の第一著者、山下先生が、
    「EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2には熱伝導度のフォノン成分が異なる2種類のサンプルが存在する。それはサンプル内部の不純物の多少に起因していると考えられる。有限熱伝導度はフォノン成分が大きな乱れのないサンプルでなければ観測できない」
    という論文をJPSJ誌に報告する。
    ・M. Yamashita, J. Phys. Soc. Jpn. 88, 083702 (2019)

    図、2種類のグループに分かれる熱伝導度

  4. この事態に対し、福山秀敏先生が、
    「1つの物質に2つの結果があるのは不可思議なので、原因を明らかにすべき」
    という旨のコメントをJPSJに報告。同時に福山コメントに対する返答が、山下先生によりJPSJに報告される。
    ・H. Fukuyama, J. Phys. Soc. Jpn. 89, 086001 (2020)
    ・M. Yamashita, J. Phys. Soc. Jpn. 89, 086002 (2020)
    ※(2/12追記:福山先生より下記コメントを頂きました。福山コメント論文の正確な趣旨は下記コメント、及び元論文をご参考ください。)
    『Fukuyama commentの趣旨は”3.Yamashita論文での「2種類の結晶が存在する」という主張にはエビデンスの提示が必要”であるが、それに対するYamashita replyでは「2種の結晶」には触れず「冷却速度が問題」と論点が変えられている。』
  5. 山下先生論文に対して、カナダグループが反論を行う。
    「サンプルは同じ理研の加藤グループから提供を受けており、またScience論文と同じバッチのものも測定しており、サンプルの差が顕著にあるとは考えにくい」
    「放射光X線でみても測定サンプルに違いは観られない」
    「JPSJ論文の比較を信じるならば、有限熱伝導度が見えるサンプルは、フォノンが極低温で全く散乱されていない結果となるが、そんな事がありうるのか?少なくともスピン励起による散乱が残るのではないか?」
    と疑問を呈する。
    ・P. Bourgeois-Hope et al., Phys. Rev. X 9, 041051 (2019)

    表、放射光X線で測定したサンプルごとのRファクターの違い

  6. 山下先生らが、カナダ、中国グループが再現できなかった原因として、
    「冷却速度が早すぎて、サンプルにマイクロクラックが入ったのではないか?」
    という仮設を提唱する。実際、0.4 ~ 1.5K/hの極低速冷却を行うと、有限熱伝導度が観測できることをPRB誌に報告した(但し、Science論文の値よりも一桁小さい結果になっている)。
    ・M. Yamashita et al., Phys. Rev. B 101, 140407(R) (2020)

    図、冷却速度の違いによる熱伝導度の温度依存性の違い

  7. 山下先生の急冷によるマイクロクラック説に対して、カナダグループが、
    「測定前後のサンプルをSEMで観てもマイクロクラックは観測できない」
    と反論する。
    ・P. Bourgeois-Hope et al., Phys. Rev. X 9, 041051 (2019)
    ・P. Bourgeois-Hope, PhD Thesis

    図、サンプルのSEM観察によるマイクロクラック有無の確認

  8. サンプル提供元の理研の加藤先生グループが、急冷の影響が結晶構造、電気抵抗、NMRに現れるか検証を実施した。いずれの測定手段でも違いが観測できないことをCrystals誌に報告した。さらに、
    「そもそも最初のScience論文は急冷して測定されているのだから、冷却速度依存説では説明がむずかしいのではないか」
    という点を指摘している。
    ・R. Kato et al., Crystals 12, 102 (2022)

    図、Science論文とPRB論文の冷却速度と熱伝導度の関係の比較

  9. 山下先生らが、電気抵抗と熱伝導の冷却速度依存性の測定を実施。冷却速度依存で熱伝導度のゼロ温度有限成分の有無は変わるものの電気抵抗の振る舞いは変わらないことを報告。この結果を、「熱伝導度に影響を与えるDisorderの長さスケールは、電気抵抗に影響を与えるよりもずっと長い」ため、冷却速度依存するDisorderはX線回折とNMR、電気抵抗で検出できないと解釈している。この結果を受けて「遍歴スピン励起を議論する場合、非常に注意深い実験が必要であること」を主張している。
    ・M. Yamashita et al.,  arXiv:2205.10039
    ・Yamashita, M., Sato, Y., Kasahara, Y. et al. Resistivity and thermal conductivity of an organic insulator β′–EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2. Sci Rep 12, 9187 (2022).

    図、同一サンプルでゆっくり冷却→急速冷却して熱伝導の振る舞いが変わることの確認

  10. 大阪大の中澤先生と理研の加藤先生らが、β'−X[Pd(dmit)2]2の系統的な熱伝導測定を実施。β′−EtMe3Sb[Pd(dmit)2]2に観られたガラス的な熱伝導の振る舞いが、サンプルクオリティや冷却によるマイクロクラックに依るものではなく、QSL基底状態をもつ物質の普遍的なふるまいであると主張している。
    Tetsuya Nomoto, Satoshi Yamashita, Hiroki Akutsu, Yasuhiro Nakazawa, and Reizo Kato, Phys. Rev. B 105, 245133 – Published 23 June 2022


  11. 今に至る(2022/6/30時点)

[まとめ]

 本記事では、論争が続いている有機物量子スピン液体の熱伝導度問題について、議論の経緯をまとめてみました。主要な原因として提案された冷却速度依存性説でしたが、0.4K/hの実験を再現しようとすると、冷却だけで一ヶ月ほど必要となる計算で大変な仮説になっています。α-RuCl3の熱ホール効果もですが、量子スピン液体の熱測定の議論は難しい問題が多いですね。ただ、議論が巻き起こるほど重要な結果ということですので、今後も議論の経緯に注目したいと思います。おもしろいので。

[参考文献]

[1] 磯野 貴之, 宇治 進也, 有機スピン液体物質における量子臨界現象とスピン–格子デカップリング現象の発見, 日本物理学会誌 2019 年 74 巻 7 号 p. 483-488
[2] Lucile Savary and Leon Balents 2017 Rep. Prog. Phys. 80 016502

コメント

  1. 理研の加藤です。
    経緯がわかりやすくまとめられていると思います。
    一つだけ、
    R. Kato et al., Crystals 12, 102 (2022)における、冷却速度依存性の検証対象の内、「磁化率」は「結晶構造」に訂正していただけると幸いです。
    よろしくお願いいたします。

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    返信
    1. 加藤先生、コメントありがとうございます。
      ご指摘いただいた部分は修正させていただきました。

      削除
  2. 下記本文
    『4.この事態に対し、福山秀敏先生が、
    「1つの物質に2つの結果があるのは不可思議なので、原因を明らかにすべき」という旨のコメントをJPSJに報告。同時に福山コメントに対する返答が、山下先生によりJPSJに報告される。
    ・H. Fukuyama, J. Phys. Soc. Jpn. 89, 086001 (2020)
    ・M. Yamashita, J. Phys. Soc. Jpn. 89, 086002 (2020)』

    について、正確を期すために下記文言の補足をお願いします。
    ー-
    『Fukuyama commentの趣旨は”3.Yamashita論文での「2種類の結晶が存在する」という主張にはエビデンスの提示が必要”であるが、それに対するYamashita replyでは「2種の結晶」には触れず「冷却速度が問題」と論点が変えられている。』
    ー-

    ふくやま

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    返信
    1. 福山先生
      コメントありがとうございます。
      正確な趣旨を記載できておらず申し訳ございませんでした。
      頂いた文言を本文に追記させていただきました。

      削除
  3. 理研の加藤です。
    修正ありがとうございます。
    もう一つ付け加えますと、項目6と項目7は時間の流れとしては逆です。
    カナダグループのPRX論文と中国グループのPRL論文は(APSの配慮により)同じ日(10 December 2019)に掲載されましたが、それよりもずっと前にArXivに公開されました。項目3の山下論文は、それらArXivの内容への対応として作成され、PRX論文とPRL論文が査読中に掲載されました(July 8, 2019)。そのため、両論文のレフェリーは、山下論文の記述を基に、カナダグループと中国グループに、2種類の結晶の存在、マイクロクラックの存在などを確かめるように要求しました。その結果が、項目5と7です(PRL論文でもXRDとSEMで結晶の観察を行なっています)。つまり、山下論文が直接的な実験的証拠を示していないのに、カナダグループと中国グループがそれを検証するというおかしな状況になったわけです。結局、「1つの物質に2つの結果がある」ということになり、それに対応して項目6のPRB論文が発表されました。ここでは、冷却速度の効果は、マイクロクラックだけではなくドメインの形成などに影響すると主張しています。いずれにしても、PRB論文では、冷却過程で生じるのは、単に実験のやり方がまずいために生じるクラックの類(単なる実験の失敗)ではなく、(実体は良くわからないが)結晶のintrinsicな性質としての(分子レベルの?)random scatterersが想定されています。

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    返信
    1. 加藤先生
      コメントについて、大変ありがとうございます。
      Arxivでの議論の時系列について、混乱しておりました。
      正確な議論の流れは加藤先生のコメントをご参考いただくよう、追記させていただきます。

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